起源・創祀
尾鷲神社の創祀について

当神社の 創祀は、宝永(1707)と安政(1854)の大地震による津波で神社の記録・古文書等すっかり流出しており詳にし難い。

現存する記録では、宮座に伝わる見聞闋疑けつぎ集等から主祭神である武速須佐之男命(素戔鳴尊)が鎮座するこの地に、当時の本地垂迹説の考え方で藥師如来と同体であると金剛寺(旧薬王山光林寺)が1597年に再興され、尾鷲七郷の総鎮守、氏神様として崇め祀られていたが、寬文年中(1661~72)時に宮座、同住職、七郷村役等の相談の上、氏神神社確立と拡充を図って、大楠の後ろに建っていた二階建ての御社を現在のところに新しく建て移動、又、境内を整備し寺役(今の檀家)から神主を選んだと伝わっている。

ところが 、社伝には古老の口碑伝承として、大宝年間(701~703)に播磨国・広峯社より武速須佐之男命(素戔鳴尊)を勧請したと伝えられており、ここが創祀としているが、播磨国・広峯社が733年の創祀と伝えられているため史学上は難しいと考えられてきた。しかし、近年の調査で播磨鏡(1762~地方誌)に「崇神天皇の御代に広峯山に神籬を建て、素戔鳴尊、五十猛命を奉斎し…」とあり、3~4世紀に広峯山に神々が鎮座した史実、尾鷲神社の例祭に用いる

巻藁まきわらが尾鷲七郷の氏人旧家120軒をもとにしている事から既に鎌倉時代には例祭が執り行われている点(旧家120軒は、鎌倉時代である~「おわせの浦村」参照)、更に二階建ての御社の前の御神木の樹齢が一千年以上である事などと、様々な事象や歴史が明かになってきている。

よって現在は、社伝の古老の口碑伝承である大宝年間(701~703)に広峯社より勧請したのが創祀と考える方が有力である。