当神社の 創祀は、宝永(1707)と安政(1854)の大地震による津波で神社の記録・古文書等すっかり流出しており詳にし難い。
現存する記録では、宮座に伝わる見聞
ところが 、社伝には古老の口碑伝承として、大宝年間(701~703)に播磨国・広峯社より武速須佐之男命(素戔鳴尊)を勧請したと伝えられており、ここが創祀としているが、播磨国・広峯社が733年の創祀と伝えられているため史学上は難しいと考えられてきた。しかし、近年の調査で播磨鏡(1762~地方誌)に「崇神天皇の御代に広峯山に神籬を建て、素戔鳴尊、五十猛命を奉斎し…」とあり、3~4世紀に広峯山に神々が鎮座した史実、尾鷲神社の例祭に用いる
よって現在は、社伝の古老の口碑伝承である大宝年間(701~703)に広峯社より勧請したのが創祀と考える方が有力である。