朝晩は少し涼しくなりましたが、まだまだ夏日が続く午前10時に10月14日のスポーツ(体育)の日に平和祈念祭を執り行いました。
この祝日はもともと昭和39年に戦後、奇跡の大復興の証と東京オリンピック1964が開催された事を記念してできた祝日です。
以前は開会式の行われた10月10日が祝日であり祭典を行ってきましたが、現在では、カレンダー上のスポーツ(体育)の日と定めて奉仕しております。
尾鷲神社では、平和の祭典と言われるオリンピックの精神を踏まえ、世界で起きている紛争・戦いがなくなり、世界の恒久平和が一日でも早く訪れる事を祈念しました。
これからも皆様のご参列を心からお待ちしております。
尾鷲神社では、地域の活性と氏子達のご多幸を祈念して干支大絵馬を作成し、新年、境内に飾っております。
その作成を18年前より、氏神神社の文化伝統の伝承・継承と町おこし、更に青少年育成活動のひとつとして、尾鷲高校美術部と書道部に協力を願って、恒例行事として神社側が選んだ干支絵馬のデザインを大きな絵馬板に写し描いてきました。
現在では、子ども達の更なる啓発活動としてデザインから尾鷲高校美術部・書道部の生徒達に作成してもらております。
今年もデザイン画が出来上がりましたので、10月10日、午後4時15分より神社で干支絵馬デザイン発表会を行いました。
報道関係社の集まる中、生徒達より来年の干支絵馬(巳~へび)のデザイン画が発表され、記者達の質問に「来年は巳なので太い白蛇が小づちを守り幸福をまねく事をイメージして描いた。」「干支絵馬なので紅白の梅の花も描き縁起よくした。」「主役の絵に合わせてデザイン画を活かすように豪快に字を書いた。」など様々な感想がありました。
題材がへびと難しいところ、見事に白蛇とで小づちで縁起良く描かれた新年干支絵馬!日本で尾鷲にしかないオリジナル干支絵馬です!
この絵馬が来年、神社を飾る干支大絵馬に!そして、初詣などで訪れる参拝者の授与する干支絵馬になります。
この干支大絵馬と今まで作成してきた一回り分の大絵馬12枚が、新年、神社境内を彩ってくれるのが今から待ち遠しい限りです。
薄曇りなのにまだまだ暑い9月25日(水)に尾鷲神社に小さなお客様・尾鷲小学校の小学2年生のみなさんが訪れました!
これは、小学校の生活科の学習で「尾鷲の町を探検し学ぼう!」という目的のためです。
午前9時30分、子ども達が拝殿のイスにすわって、皆で「よろしくお願いします!」と元気よく挨拶をしてもらい、探検学習が始まりました。
まずは、氏神様である尾鷲神社の説明(創始、歴史、ヤーヤ祭りなど)をなるべく子ども達にわかるような言葉でかんたんにお話ししました。(例えば、神殿 → 神様のおうちなど)
そして、次はいよいよ子ども達から
・お守りは何でできているの?お守りどうやって作るの?尾鷲神社はどうやってできたの?どんな神様がいるのですか?などとたくさんの質問にお答えしました。
最後に、大きな声で「ありがとうございました!」とお礼の挨拶をして境内に降りて学校へ帰りました。
これからの尾鷲、日本を背負っていく子ども達!大きく育って下さい。
まだまだ残暑が厳しく、クーラーが恋しく感じる9月16日(月)、午前10時より敬老祭を執り行いました。
今日がシルバーウィークの最終日のためか、氏子2名の参列での奉仕となりました。
修祓→一拝→献饌と進め、祝詞では現在の日本の繁栄に尽力して下さったことに対する感謝とこれからも元気でご長寿いただく事を祈念しました。
次に舞姫2人による「浦安の舞」を奉納!
最後に玉串拝礼→撤饌→一拝を行い祭典を閉じました。
これからもたくさんの皆様のご参列を心からお待ちしております。
9月1日に事始奉告祭で始まった八幡神社の本祭(例大祭)が9月15日(日󠄀)に執り行われました。
午前10時に招待者と祷務町の中井町、氏子町の人々が参集する中、例大祭を執行し日々の神恩感謝と更なる御守護、御神徳を祈念しました。
その後、氏子達の神事(祭事)の道中手踊りで町中を賑わしながら、境内に進み、祷務町の中井町の大名行列、各町の手踊りを神前で披露し大神等にお喜びいただきました。
来年も良き祭りなるように神明奉仕に尽くしていきたいと思っております。
今年は、全国各地で35℃を超え、熱中症警戒アラートが発表される程の厳しい酷暑の中、7月28日(日)午前10時、熊野灘部隊慰霊祭が執り行われました。
熊野灘部隊とは、本土の守護と先の大戦(大東亜戦争)時、この尾鷲の土地へ潜水母艦「駒橋」を中心とした遥か関東東北から総勢314名の軍人により組織された海軍の部隊です。
今思えは、遡りし終戦が間近だった昭和20年7月28日の早朝、連合軍の戦闘機の奇襲攻撃に遭い、当時、尾鷲湾に配置されていた「駒橋」他、多くの戦艇が沈められました。
この時、国土や尾鷲を守るため、勇敢にも連合軍と交戦したのが熊野灘部隊で当時、戦局もかなり不利だったにもかかわらす、部隊は嵐の様に着弾降り注ぐ中雄々しく戦い抜きました。
がしかし・・・空爆は10時間程続き、147名の尊き命が犠牲となりました。
この147名のご英霊は、それぞれ出身地での護国神社にお祀りされているでしょうが、御亡骸の多くはこの尾鷲にあります。
この史実を踏まえて、熊野灘部隊慰霊顕彰会のお志から神社境内社の招魂社横に建立された慰霊碑の前で、毎年たくさんの招待者が参列する中で、慰霊祭を執行しております。
近隣諸国や国内でも様々な意見がありますが、現在の日本の繁栄があるのは、ご英霊の尊き御霊のおかげです。この戦没者慰霊顕彰祭は、永く言い伝えて執り行っていかねばならぬ祭典です
「日本人の心として」