9月28日、氏子の川口様より今年も取れた新米10㎏が社頭奉納されましたので、10月1日の月旦祭でお供えし大神等にお喜び戴きました。
川口様からは、神社の祭典(祭り)の度にいつも地の野菜も奉納していただいております。
これからも氏子崇敬者の皆様のお気持・お志を大神等にしっかりとお届けし、御神威の発揚に努めていく所存です。
今年1番強い勢力の台風24号が通り過ぎ、晴れ渡り心地よい秋空の10月1日(月)午前9時から月旦祭を執り行いました。
平成最後の台風Seasonは、約1ヶ月の期間に台風20号、21号、24号と、この地方を三つの台風が襲いました。
大なり・・・小なり・・・20号、21号それぞれの台風で被害に遭ったため、昭和34年の伊勢湾台風にも匹敵する今回の台風24号では、どうなってしまうのか?と総代の皆さんと心配し、看板の取り外しや飛ばぬようベンチ、イスをロープで縛るなどとできる限りの対策を講じました。
ただ1番心配なのは、神域、境内に聳える樹齢一千年を超える大楠(夫婦楠~県天然記念物)を始めとする巨木・古木などの樹木が強風により倒壊する事です。
こればかりは対策のしようがなく、大神等に御守り願うしかありません。
神社に参籠して台風が行き過ぎるまで警らに務めましたところ、今回の台風24号では、大きな被害もなく無事に過ぎ去りました。
改めて大神等の御神力を畏み、この10月月旦祭で参列した氏子崇敬者の皆様と感謝申し上げました。
そして、この三度にわたる台風の強風にも損なわれず雄々しい姿を見せる大楠(夫婦楠)!
まさに御神威発揚のパワースポット!として、古よりこの尾鷲を見守り続けております!
強力な台風24号が近づく中、今年一番の秋空になった9月28日(金)に地元の崇敬業社である㈱アサヒ住宅様の月参り祈祷がありました。
そして、今月は、㈱アサヒ住宅様のお気持・お志により、予てから準備調製していた境内社である天照大神宮の御神鏡が整ったため、奉納奉告祭も執り行いました。
この天照大神宮は、社名からもわかるように尾鷲神社の主祭神、スサノヲ命の姉神の天照大神をお祀りしております。
以前は例祭日も定まっておらず、氏子崇敬者が個人的に参拝する慣習でしたが、更なる大神の神威発揚を願って、社殿修復を行った十数年前から「海の日」を例祭日と決めて祭典奉仕に務めております。
しかし、御扉をお開けした際、天照大神とは御縁が深い御神鏡がありませんでした。
この事を聞きつけたアサヒ住宅様が御神鏡奉納の申し出があり、今回の奉告祭に至りました。
なお、尾鷲ならではを考慮して、神鏡台は神社総代と地元有志の方の作品となっております。
来年の「海の日」の大神宮の例祭で、この新たな御神鏡が御披露されますのでご参列を心からお待ちしております。
9月1日に事始奉告祭で始まった八幡神社のお祭りが、いよいよ9月15日~16日の二日間に本祭(例大祭)が執り行われました。
まず、9月15日(土)、午前零時に梼人、梼務町、招待者、神社総代、手伝い町の氏子達が集まる中で御扉開きを行い、続いて午前10時から例大祭と神事を行いました。
今年の例大祭では、地元の子どもの「浦安の舞」も奉奏され、神恩感謝にあわせ更なる御守護、御神徳を祈念しました。
次の日の9月16日(日)には、氏子達が中心となって奉仕する「大名行列と道中手踊り」が行われました。
梼受町(来年の梼務町)の尾鷲節披露、梼務町の大名行列に続き、各氏子町(手伝い町)の道中手踊りの順で、まずは町中(旧熊野街道)を練り歩きます。
当日、嬉しい天気予報のはずれがあり、朝から清々しい秋晴れの中、午後13時より祭事がスタート!
町中を賑やかした後、八幡神社境内に上がり、大神等に各町手踊りの奉納をして道中手踊りを納めました。
最後に梼渡しの儀式。神社総代が親方(見届け人)を務め、今年の梼務町の野地新町から来年の梼務町(梼受町)の今町の間で杯を酌み交わし、代々梼務町に受け渡されていく八幡神社の掛軸を引き継ぎました。
そして、無事に梼務を務め上げた野地新町への労いと、来年、梼を務める今町への光明を願って、最後に皆で柏手を打ち八幡神社のお祭りを閉じました!
台風20号の後片付けがどうにか済み、災害に遭った境内トイレや社宅の屋根、瓦等などの修理が終わって、いよいよ本殿に取り掛かろうと足場を組んだ矢先に台風21号が近畿・東海地方を襲いました。
20号も大きな台風でしたが、この台風21号は更に強いとの予測だったので本殿足場なども飛ばされる事ないように事前にしっかり対策して望みました。
今回、最接近した時間帯が昼間だったので、宮司、禰宜とも神社や境内の警邏(けいら)に当たりましたが、雨風の強さは先の20号よりも激しかったと感じました。
しかし、事前対策が良く台風21号のスピードも速かったおかげで、境内にある楠や杉の巨木・古木からの倒壊樹木も20号の時より被害が少なかったです。
本殿も返って足場があったおかげで折れた枝が直撃せず、周囲の玉垣を破損しただけで済みました。
ニュースを見ても、これぐらいの被害で済ましていただいたのも、全てスサノヲ命を始めお鎮まり下さる神々の御守護・御神徳によるものと感謝申し上げる次第です。
そして、神秘の証し!樹齢一千年を遙かに超える大楠(夫婦楠)は、度重なる強い台風にも負けず、今日も東紀州のパワースポットとして氏子崇敬者の皆様に大神等の大神威を授け続けております!
子ども達の賑やかな登校風景が微笑ましく、さわやかな秋の訪れを感じさせる9月1日(土)に本祭を15日~16日に執行するに当たって、八幡神社の事始奉告祭と梼屋開き式を行いました。
八幡神社は、尾鷲神社氏子20町のうちの15町の氏神神社であり、尾鷲神社宮司が兼務しております。
先ずは、梼務町の梼人等と神社総代が集合し、神社で午前10時から事始奉告祭を行い、本祭(神事・祭事)が厳かで盛大、そして、何事もなく執り行われるように祈願しました。
そして、午後から梼務町に出向いて梼屋を祓って祈祷を行います。
今年の梼務町は野地新町ですので、その町内にある梼屋に梼人・役人を始め町民等が集まり、野地新町の繁栄と本祭まで氏子町の代表としてお祭が無事に行えるように梼務町の役目を務められる事を祈念しました。
今日から本祭まで!尾鷲の町はお祭りの準備で忙しくなります!
強風だった台風20号の後片付けをしているところに大楠や鳥居などにつける来年用の注連縄のため、毎年わらをご奉納下さる尾鷲の農家の方々より稲刈りが終わったとの連絡がありました。
尾鷲神社の注連縄は、神社総代を中心に氏子の皆様の奉仕により毎年作成していただいております。
そこで、後片付けが終えるや否や神社総代が中心となって各農家にわらをもらいに行き、わら干しを行いました。
軽トラック3~4台で数度!往復して運んだわらを乾燥させるため、弓場に干すのですが・・・
そのまま干さずにあとの作業をやりやすくするためにわらをすぐりました。
数日間、乾燥させてから倉庫に保管するまで神社総代の皆さんの作業が続きます。(本当に総代の皆さんの奉仕精神には頭が下がります)
今年の暮れには氏子総代により素晴らしい注連縄を作っていただける事でしょう!
8月23日~24日にかけて近畿・東海地方を直撃した台風20号!
尾鷲では信号機があさっての方向を向いたり、漁港の物置が飛ばされたりとかなりの強風が吹き荒れました。(雨もそこそこ降りましたが昔から「雨の尾鷲」と言われており、今回ぐらいの雨量は問題なしです)
このイタズラ好きの20号の影響で神社の敷地の至る所に折れた倒壊樹木が散乱しておりました。
被害としては、ご本殿の千木が1本破損したのをはじめ、境内トイレの屋根、神社宅の屋根の損傷、雨漏りなどです。
しかし、倒壊した樹木には直径30~40㎝ほどの枝もあり、この程度に済ましていただいたのは大神等の御守り・お導きのおかげと感じております。
翌日から氏子総代の皆さんが出てきて、折れた樹木の片付けや破損した屋根の補修などにご尽力下さり、8月26日の夕方にはどうにか日常の神社の風景に戻りました。
そして、崇敬者(特に巨木古木ファン)の皆様!!東紀州のパワースポットとして有名な神社のシンボルの御神木!大楠(夫婦楠)は何事もなかったように雄々しい姿でこの尾鷲の地を見守って下さっております。
又、たくさんの皆様のご参拝を心からお待ちしております。
8月15日(水)午前9時、今年の暑すぎる夏の陽射しがひと休み!と朝から雨が降る中、8月月次祭が執り行われました。
尾鷲神社ではこの8月次祭の中で、全国戦没者慰霊も行っており、今年は毎年、干支絵馬板をご奉納下さる相模興玉宮の方にご参列いただきました。
一般的に、昭和20年8月15日は終戦日といわれていますが、正確には日本国が無条件降伏を受け入れて停戦状態になった日です。(ポツダム宣言の調印は、9月2日を停戦と考える方もありますが・・・)
実質の終戦は、7年後の昭和27年4月28日、アメリカを始めする連合国が様々な占領政策や戦後処理などを終えて、日本が独立国として国家主権を回復したサンフランシスコ講和条約が発効された日と考えられております。(これも調印は前年9月8日ですので、その日が終戦日と言う方もいます)
しかしながら日本人にとって、戦争を終結することを知った8月15日が戦争が終わった。つまり、終戦日と感じるのもおかしくないと思います。
そして、何よりも現在の繁栄した日本が在るのは、先の戦争で国のため、家族のためと戦って、尊き生命を燃やしていった御英霊のおかげである事を決して忘れてならないと考えております。
近年、様々な意見があるようですが、この戦没者慰霊顕彰に政治(外交)や政教分離などは全く関係なく影響を受けるものではありません。
一人でも多くの人々が御英霊の御霊なごめにお参り下さることを願っております。
日本人の「こころ(精神)」として!
熊野灘部隊とは、本土の守護と先の大戦(大東亜戦争)時、この尾鷲の土地へ潜水母艦「駒橋」を中心とした遥か関東東北から総勢314名の軍人により組織された海軍の部隊です。
今より遡りし昭和20年7月28日の早朝、連合軍の戦闘機の奇襲攻撃に遭い、当時、国土や国民、そして尾鷲を守るため、勇敢にも連合軍と交戦したのが熊野灘部隊でした。
当時、終戦が間近だったため、戦局もかなり不利だったにもかかわらす、部隊は嵐の様に着弾降り注ぐ中雄々しく戦い抜きました。
がしかし・・・空爆は10時間程続き、尾鷲湾に配置されていた「駒橋」他、多くの戦艇が沈められるとともに147名の尊き命が犠牲となりました。
この147名のご英霊は、それぞれ出身地での護国神社にお祀りされているでしょうが、御亡骸の多くはこの尾鷲にあります。
そこで、その関係者や尾鷲の有志の人々によって、熊野灘部隊慰霊顕彰会を発足し、慰霊祭を執り行ってきました。
熊野灘部隊慰霊顕彰会のお志に、氏子総代会も賛同し神社に慰霊碑を建立して、毎年、慰霊祭を執行する事となり現在に至っております。
今年は7月29日(日)、午前10時30分に慰霊祭を執り行う予定でした。
ところが、29日の未明に時季珍しい台風12号が三重県伊勢市に上陸したため、同日の執行は無理か?と思われました。
しかし、熊野灘部隊の御英霊を始め大神等の御守り導きを頂戴し、大雨、強風ともに大したことなく過ぎたため、予定通り熊野灘部隊慰霊祭を執り行なう事が出来ました。
73年後の現在に、このような御英霊の尊き神威を目の当たりにして、改めて、この戦没者慰霊顕彰祭は、永く言い伝えて執り行っていかねばならぬと感じました。
昨今、政教分離や憲法違反などと様々な事をいう人もおりますが、国家国民のために尊き命を燃やして下さった御英霊の慰霊顕彰の祭典は、宗教や政治など関係なく「日本人の心として」たくさんの方々にお参り頂くべきだと思っております。