熊野灘部隊とは、本土の守護と先の大戦(大東亜戦争)時、この尾鷲の土地へ潜水母艦「駒橋」を中心とした遥か関東東北から総勢314名の軍人により組織された海軍の部隊です。
今より遡りし昭和20年7月28日の早朝、連合軍の戦闘機の奇襲攻撃に遭い、当時、国土や国民、そして尾鷲を守るため、勇敢にも連合軍と交戦したのが熊野灘部隊でした。
当時、終戦が間近だったため、戦局もかなり不利だったにもかかわらす、部隊は嵐の様に着弾降り注ぐ中雄々しく戦い抜きました。
がしかし・・・空爆は10時間程続き、尾鷲湾に配置されていた「駒橋」他、多くの戦艇が沈められるとともに147名の尊き命が犠牲となりました。
この147名のご英霊は、それぞれ出身地での護国神社にお祀りされているでしょうが、御亡骸の多くはこの尾鷲にあります。
そこで、その関係者や尾鷲の有志の人々によって、熊野灘部隊慰霊顕彰会を発足し、慰霊祭を執り行ってきました。
熊野灘部隊慰霊顕彰会のお志に、氏子総代会も賛同し神社に慰霊碑を建立して、毎年、慰霊祭を執行する事となり現在に至っております。
今年は7月29日(日)、午前10時30分に慰霊祭を執り行う予定でした。
ところが、29日の未明に時季珍しい台風12号が三重県伊勢市に上陸したため、同日の執行は無理か?と思われました。
しかし、熊野灘部隊の御英霊を始め大神等の御守り導きを頂戴し、大雨、強風ともに大したことなく過ぎたため、予定通り熊野灘部隊慰霊祭を執り行なう事が出来ました。
73年後の現在に、このような御英霊の尊き神威を目の当たりにして、改めて、この戦没者慰霊顕彰祭は、永く言い伝えて執り行っていかねばならぬと感じました。
昨今、政教分離や憲法違反などと様々な事をいう人もおりますが、国家国民のために尊き命を燃やして下さった御英霊の慰霊顕彰の祭典は、宗教や政治など関係なく「日本人の心として」たくさんの方々にお参り頂くべきだと思っております。
毎年、ご自身が作られる甘夏等を神前にお供え下さるマリーナ甘夏ファームの柳川明彦・めぐみご夫妻より精麻一束のご奉献がございましたので、7月24日の午前中、大麻奉納式を執り行いました。
皆様もご周知の如く、麻(あさ)は、神社においては古くから祓へつもの、神の依代(よりしろ)として、又、生活面では装飾品、着物などと、日本の文化伝承や生活風習と最も親しみのある尊き草木です。
しかしながら、戦後、麻(大麻)の悪しき部分ばかりが取り上げられ、規制ばかりが進み全国でみられた麻農家が現在では、栃木県を中心にわずか十数件だけだと聞いております。
確かに大麻=麻薬という観点から規制するのもわかりますが、実際、大麻草にも種類があり、麻薬とは無関係なものも存在し栽培されているそうです。
日本で古(いにしえ)より代々に受け継がれてきた麻の文化歴史を今一度見つめ直し、次世代に繋いでいかねばならないと感じております。
毎年、天気とにらめっこしながらの奉仕となる境内社の天照大神宮!
今年は例年より早い梅雨明けのおかげで、青々と晴れ上がった7月16日~海の日、午前11時より太陽が輝く中、尾鷲神社の主祭神、武速須佐之男命の姉神である天照大神をお祀りする境内社前で厳かに執り行われました。
参列者は総代会長、他総代13名、氏子8名の合計21名程が見守る中、本殿の扉を開けて、常日頃から御守り導き戴いている神恩感謝の気持ちとこれから先も変わらぬご指導お導きなどを祈る祝詞を奏上しました。
続いて、例祭の奉祝として、二人の舞姫による「浦安の舞」の奉納が行われました。
最後に、神職をはじめ、参列者の皆様に玉串拝礼を執り行い祭典を納めました。
来年もたくさんの方の御参拝を心よりお待ちしております。
梅雨明けて日々うだるような暑さが続き、朝から30℃を超えた7月15日(日)に月次祭を執り行いました。
今回は、参列された氏子数名と共に、先の西日本豪雨で被災された人々がいち早く安心した生活を取り戻す事や被災された環境の速やかな復興を願いました。
修祓して宮司一拝、そして、祈願祝詞を奏上した後に太鼓を叩きながら、全員で祈りを捧げました。
次に、玉串拝礼を終えて、祭典をおさめる前に被災された方々への御見舞と200名以上の尊き命に対し、参列者全員で黙祷を捧げました。
昔から五風十雨といいますが、改めて自然の力の凄さに驚愕し、そして、日本人が自然崇拝から始まる神観念で様々なものに神様が宿り、更に畏敬の念をもって共生してきたことの意味の深さを感じました。
ここに、西日本豪雨で被災された皆様とお亡くなりになった200名以上の尊き御霊に哀悼の意を表します。
御霊安らかんことを・・・